30年以上前の北海道の鉄路

私は学生の頃に乗鉄をしていたので、当時の時刻表が1冊だけ自宅にあります。
1987年の4月号、国鉄が民営化してJRになる時の時刻表です。

道北は天北線や名寄本線が走っていて、道北の大きな街には鉄道が走っていた頃です。
石北本線も多くの駅があるのですが、なぜかこの頃の私は北海道に興味がありませんでした。
特に深名線の朱鞠内には行ってみたかったなぁ。

道北は標津線があり、根室からかなり離れた場所に根室標津駅があります。
根室がついているのは、根室県が有った事の名残なのでしょうか?
最近この駅は転車台が復元されC11も保存されているので、私が近いうちに行きたい廃線跡のひとつです。

そして札幌近郊ですが、この頃はまた新千歳空港駅がありません。
今の南千歳駅が千歳空港駅だったのですが、私も一度だけ使った事があります。
行きはバスで札幌に行ったので帰りだけしか使っていない事もありますが、帰りは飛行機の時間がギリギリで札幌駅の階段を駆け上がった記憶があります。
だからなのか、当時の駅の構造などは全く覚えていません。

また、この頃の札幌駅は高架ではありませんでした。
この頃の札幌駅は使った事が無いのですが、今と違って旅情があったのではないでしょうか。
10年後の北海道の鉄路はどうなっているのでしょうか?
そして20年後は?
新幹線と札幌圏だけ残っているような事にならないよう、JR北海道の鉄路をもっと利用しましょう。
私もコロナが収束したら、乗りに行きます♪
ちいかわ)阪急梅田駅へちいかわ号を観に行く
北海道の鉄道を応援しよう♪
北海道の観光列車 ノロッコ号
JR北海道を応援する新たな切符が出た!
6年前に北斗星に乗ってキャンプ行った時の写真を見ていたら・・・
「キハ400 宗谷線急行気動車風」
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この記事へのコメント
懐かしいですね。
当時、毎週のように特急に乗っていたのでその時刻表も見たことがあります。
昔の路線図を見て哀愁を感じますね。
いろんな路線にもっともっと乗ってみたかったです。
当時、毎週のように特急に乗っていたのでその時刻表も見たことがあります。
昔の路線図を見て哀愁を感じますね。
いろんな路線にもっともっと乗ってみたかったです。
北海道の鉄路は
どんどん無くなってますね。
昔と比べたら全然違いますね。
しかし、良く時刻表残ってましたね。
※レッドブルホンダ勝ちました!
どんどん無くなってますね。
昔と比べたら全然違いますね。
しかし、良く時刻表残ってましたね。
※レッドブルホンダ勝ちました!
Kyanさん、おはようございます♪
その頃の鉄路に殆ど乗っていないので、とっても羨ましい!
今は路線が激減してしまい、ホント残念です。
その頃の鉄路に殆ど乗っていないので、とっても羨ましい!
今は路線が激減してしまい、ホント残念です。
山猿さん、おはようございます♪
フェルスタッペン勝ちましたね♪
ホンダエンジンの活躍を期待しましょう♪
フェルスタッペン勝ちましたね♪
ホンダエンジンの活躍を期待しましょう♪
おはようございます。
Gianさんが乗った当時の千歳空港駅はホームから上がった所に改札があり
そこから長い長い連絡橋を千歳空港へ歩いたかと思います。
この連絡橋は雨や雪のときはありがたいのですがとても長くて大変だった記憶があります。
なので当時は空港ターミナルへ直接着く連絡バスが人気だったような。
わたしも冬に道路状況が読めないとき以外はバスが多かったように思います。
古い札幌駅は改札を抜けると階段を下り各ホームへ上がるようになっていました。
階段からは薄暗くひんやりしたコンクリートのイメージです。
また駅前には三人の乙女の像が花壇に立っていて、天に向かって手を差し伸べていました。
札幌駅で降りるとこの像が迎えてくれる気がして、今の無機質な駅前とは対照的でした。
この像はいま大通公園にあります。
今回の路線図では羽幌線は記憶にありませんが天北線や興浜北線、興浜南線、深名線には乗った記憶があります。
天北線の無人駅の前で野宿したり。
道東が好きだったので標津線には何度も乗っていて、厚床を出て葦か何かの茂る原野をとことこ走るのが好きでした。
中標津か計根別から養老牛温泉にバスが出ていてこれが日に数本しかなく
夕方のバスに乗り遅れて養老牛ユースホステルに泊まれず野宿した記憶もあります。
あと白糠線の終点で帰れなくなりこちらも野宿。
昔は宿を探すよりとりあえずを野宿していましたね。
鉄道は主に旅の足としてでしたが、車窓から風景を眺めるのが子どもの頃から好きで
必ず窓を向いて座っていました。
いまでもベンチシートの車両なら羞恥心さえなければ窓に向かって正座したいくらいです。
これはどんな街中でも原野でも同じで、何かしら発見があって飽きることがありません。
トンネルだけですかね、ほとんど興味がないのは。
そういえば以前新千歳空港駅へのトンネルに列車の速度に合わせて光りが点滅して
残像効果で文字が読める、と言うシンプルな広告がありましたっけ。
根室本線と石勝線のトンネル内分岐点を見つけることは今でもしています。
根室標津駅は根室支庁内で根室市と中標津市が覇権?を争う中でのどちらの顔も立てるみたいなことがあったのかもしれませんね。
今も北海道の主要都市で空港を持たないのは根室だけで、根室は霧の多さで発着が制限されるのも造られなかった理由のひとつでしたが
もしかしたら中標津との誘致合戦があったのかもしれません。
根室支庁(と古い人はいう)はレンタカーの営業所が一番少なく、花咲線の存続が不安です。
近頃の駅廃止で一番残念だったのは初田牛。
学生の頃よくこの駅で降りて浜中や落石岬へ歩いたものでした。
長々と失礼いたしました。
Gianさんが乗った当時の千歳空港駅はホームから上がった所に改札があり
そこから長い長い連絡橋を千歳空港へ歩いたかと思います。
この連絡橋は雨や雪のときはありがたいのですがとても長くて大変だった記憶があります。
なので当時は空港ターミナルへ直接着く連絡バスが人気だったような。
わたしも冬に道路状況が読めないとき以外はバスが多かったように思います。
古い札幌駅は改札を抜けると階段を下り各ホームへ上がるようになっていました。
階段からは薄暗くひんやりしたコンクリートのイメージです。
また駅前には三人の乙女の像が花壇に立っていて、天に向かって手を差し伸べていました。
札幌駅で降りるとこの像が迎えてくれる気がして、今の無機質な駅前とは対照的でした。
この像はいま大通公園にあります。
今回の路線図では羽幌線は記憶にありませんが天北線や興浜北線、興浜南線、深名線には乗った記憶があります。
天北線の無人駅の前で野宿したり。
道東が好きだったので標津線には何度も乗っていて、厚床を出て葦か何かの茂る原野をとことこ走るのが好きでした。
中標津か計根別から養老牛温泉にバスが出ていてこれが日に数本しかなく
夕方のバスに乗り遅れて養老牛ユースホステルに泊まれず野宿した記憶もあります。
あと白糠線の終点で帰れなくなりこちらも野宿。
昔は宿を探すよりとりあえずを野宿していましたね。
鉄道は主に旅の足としてでしたが、車窓から風景を眺めるのが子どもの頃から好きで
必ず窓を向いて座っていました。
いまでもベンチシートの車両なら羞恥心さえなければ窓に向かって正座したいくらいです。
これはどんな街中でも原野でも同じで、何かしら発見があって飽きることがありません。
トンネルだけですかね、ほとんど興味がないのは。
そういえば以前新千歳空港駅へのトンネルに列車の速度に合わせて光りが点滅して
残像効果で文字が読める、と言うシンプルな広告がありましたっけ。
根室本線と石勝線のトンネル内分岐点を見つけることは今でもしています。
根室標津駅は根室支庁内で根室市と中標津市が覇権?を争う中でのどちらの顔も立てるみたいなことがあったのかもしれませんね。
今も北海道の主要都市で空港を持たないのは根室だけで、根室は霧の多さで発着が制限されるのも造られなかった理由のひとつでしたが
もしかしたら中標津との誘致合戦があったのかもしれません。
根室支庁(と古い人はいう)はレンタカーの営業所が一番少なく、花咲線の存続が不安です。
近頃の駅廃止で一番残念だったのは初田牛。
学生の頃よくこの駅で降りて浜中や落石岬へ歩いたものでした。
長々と失礼いたしました。
ORION さん、こんにちは♪
やはり当時はバスの方が便利だったのですか。
南千歳駅のあの通路はとっても中途半端だと思っていたのですが、あの先が有ったのですね。
初田牛は廃止前に私も行きましたが、地元の方はやはり皆無でした。
行けるうちに北海道の鉄路に乗り、ORION さんのようにしっかりと記憶に残そうと思います。
やはり当時はバスの方が便利だったのですか。
南千歳駅のあの通路はとっても中途半端だと思っていたのですが、あの先が有ったのですね。
初田牛は廃止前に私も行きましたが、地元の方はやはり皆無でした。
行けるうちに北海道の鉄路に乗り、ORION さんのようにしっかりと記憶に残そうと思います。